島崎藤村「津軽海峡」全文
2023年9月24日に函館市のGスクエアで行われる「プロトスター 朗読&ドラマリーディング 第2回公演」でドラマリーディングに翻案して皆様に披露する島崎藤村「津軽海峡」の原文全文を公開します(同7月18日時点で青空文庫で公開されていないため)。なお、校正を複数回にわたって行いましたが、誤字脱字があることに気付かれた場合、「お問い合わせ」タブよりご連絡いただければ幸いです。
底本は『北海道文学全集 第1巻:新天地のロマン』立風書房,1979です。原文を本で読みたい方は、岩波文庫の『島崎藤村短篇集』にも掲載されていますので、そちらが手に取りやすいと思います。
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自分の家内は耳が遠いものですから、傍へ倚(よ)って余程大な声を出さないと聞えません。乗船の時刻が近づいたのに、まだ家内は仕度もしないで、旅舎(やどや)の二階の窓に倚り凭(かゝ)って居りました。丁度其窓の外には青森の港が見える。暗碧の色の海、群れて飛ぶ「ごめ」、またはこれから自分等夫婦を乗せて、函館へ向けて出帆するという二本橋(マスト)の駿河丸、その郵船会社の定期船が湾頭に碇泊して居る光景(ありさま)を眺めて茫然思い沈んで居たのです。いつも斯ういう時には亡くなった忰を憶出して泣いて居る、ということは、直に其後姿(うしろすがた)で知れた。自分は丁(とん)と一つ家内の肩を叩いて、
「さあ、仕度だ、仕度だ。」
と急(せ)きたてました。
其日は航海をするに申分ない天気でした。浦汐(ウラジオ)の露艦が一度この津軽海峡を通過してから、太平洋沿岸に出没するというので、定期の航海はすべて断絶のきのうきょう、たゞこの青森函館間ばかりは五六日以前から汽船の往復があるとのことでした。自分等夫婦も折角玆迄来て引返すのは残念ですし、それに露艦は伊豆の大島沖あたりを遊弋(ゆうよく)して居るという話で、昨夜(ゆうべ)はまた敵艦隊殲滅(せんめつ)の噂が伝わると同時に、或新聞社は号外を発した位ですから、あるいは其が事実に近いことかとも思って、格別其様(そん)なことは気にも留めないで旅舎(やどや)を出ました。
町の角々には代赭色(たいしゃいろ)の夏服着た厳(いかめ)しい兵士が控えて、桟橋の方へ急ぐ自分等を眺めて居りました。家内は考え々々歩くものですから、足が遅くて困る。急に立留って、何を言出すかと思うと、
「あゝ、あゝ、柳之助が生きて居たなら、斯ういう処へ一緒に連れて来て喜ばしてやるものを。」
斯う嘆息するのでした。柳之助は忰の名なんです。自分はもう持余(もてあま)して了って、
「困るじゃあないか、左様(そう)どうも思出してばかり居ては。」
と耳の側へロを寄せて叱るように言いました。すると家内は直に顔色を真紅(まっか)にして、
「そんな貴方(あなた)のような邪見な││せめて思出すのを慰藉(たのしみ)にして、斯うして私は生きて居りますんですよ。思出すなと仰るなら、いっそ死ねと仰って下さい。」
家内にも困っています。宛然児童(まるでこども)なんですから。宛然自分は四十にもなる女の児童(こども)の保姆(おもり)をさせられるようなものですから。「馬鹿、馬鹿、往来の真中で其様(そん)なことを言出す奴があるものか││見ろ、人がみんな是方(こっち)を向いて笑ってらあ。」とは言ったものゝ、それは家内の耳へよく通じないようでした。噫、人の生涯ほど測り知られないものはない。まさか忰があんな悲惨な最後をしようとも思わなければ、それが為に夫婦して斯な旅行に出ようとも思わなかったのです。日々(にち〳〵)の出来事││誰に其が解りましょう。斯な奥州の東の隅(はて)で夏の一夜を明かすのも思いがけないのです。斯な船に乗るのも思いがけないのです。第一、斯うして津軽海峡を通るのも思いがけないのです。
艀(はしけ)の出たのは間もなくでした。勇しい南部訛りの船頭の掛声と一緒に、四挺櫓で漕ぎ離れました。水夫の群は本船の舷(ふなべり)に倚り凭って、旅客を満載した幾艘の小舟の近づいて行くのを下瞰(みおろ)して居たのです。生憎其日は一等も二等も満員。家内を連れての旅ですから、荷物扱いの三等ではどうかとも気遣われたものゝ、斯ういう天気には甲板の上に限る、とそこは自分の経験があるので、本船へ着くと直ぐ舳先(へさき)の方に陣取りました。
やがて十時を報(しら)せる鐘と同時に、錨を抜く響が囂(やかま)しく耳朶(みゝ)を打つ。別離(わかれ)を告げるような蒸気の音は、ぷゝゝゝゝと高く港の空に鳴り渡りました。
船は解纜(でか)けたのです。
自分等が陣取った甲板の上というのは、一抱擁(ひとかゝえ)も以上(もっと)もある大きな檣(ほばしら)の側(わき)でした。「下り」の風が未申(ひつじさる)の間から冷々(ひや〳〵)と吹いて、花やかな日の光を送って来た時は、漸く自分も蘇生(いきかえ)ったような心地(こゝろもち)になりましたのです。「ズック」張の日除(ひよけ)の下に蓙(ござ)を敷いて、積み重ねた手荷物に倚り凭りながら息(やす)みました。やがて一服やる積りで、腰の周囲(まわり)を捜して見ると、煙草入が無い。其時家内は自分の顔を熟視(みつ)めて、「それ御覧なさいな、必定(きっと)また旅舎(やどや)へ置忘れていらしったんですよ。」と言って笑った。いや、是には自分でも驚いた。実に身の周囲(まわり)のものを忘れたり落したりするとは、我ながら酷(はなはだ)しい不覚。是でも自分は余程確乎(しつかり)して居る積りで、二言目には家内を叱り飛ばして、激励(はげ)ますようにして来たのですけれど、斯の失策(しくじり)で見ると、自分の喪心は家内以上です。「こりゃあ、乃公(おれ)も余程どうかして居るわい」と考えると、さあ自分ながら心細く感ぜられる。敗けまい、敗けまい、と思うだけ、自分の頭脳(あたま)は最早(もう)深い悲哀(かなしみ)に撃砕かれて、白痴(たわけ)のようになって居たに相違ないのです。
平館(たいらだて)の燈台を遠く白く背後(うしろ)に見て、青森湾を出はずれた頃は、日も次第に高くなりました。日本海の方面から押寄せて来る深藍色の暖流は舷(ふなべり)の左右に鳴り溢れて、日の光に照り輝くのでした。船旅の徒(つれ)然(〲)に、人々は甲板の上を往ったり来たりして眺める。自分もまた舷の欄干に倚り凭って、夏潮の音に聞き恍(ほ)れて、その清爽(さわやか)な七月下旬の海の声に心を澄まして居ると││ついまた忰のことを考える。烈しい追憶(おもいで)の情は胸壁(むないた)を衝いて湧き上りました。親の口から言うのも異(い)なものですが、夭死(わかじに)する位の奴ですから、早くから世の中の歓(うれ)しいや哀しいが解って、同じ学校の生徒仲間でも万事に敗(ひけ)を取る柳之助ではなかったのです。世間を観るに、信仰の無い今の時代(ときよ)は青年の心を静にさせて置きません。忰の短い生涯が矢張其でした。飽くことを知らない忰のような精神は、ありとあらゆる是世の事業(わざ)と光栄(ほまれ)と衰頽(おとろえ)とを嗅ぎ尋ねて、人生というものゝ意味を窮めずには居られなかったのです。飛んだ量見違いの大箆棒(おおべらぼう)と、物見高い人々には睨ませて置いて、言うに言われぬ悲慨(かなしみ)を懐中(ふところ)にしながら、黙って現世を去る時の其心地(こゝろもち)はどんなでしたろうか。思想の上の絶望││ということが彼様(あん)な青年の一生にも言えるものなら、それは確に柳之助の儚い潔い最後でしょう。凡夫のかなしさ、学問して反って無学ということを知りましたのが忰の不幸(ふしあわせ)でした。噫、忰は学問を捨てたのです。学問もまた忰を捨てたのです。到頭日光へ出かけて行って、華厳の滝へ落ちて死にました。忘れもしない、忰が突然(だしぬけ)に吾家(うち)へ帰って来て、それとなく別離(わかれ)の言葉を告げて行ったのは、自分が彼(あれ)に意見をした最後の夜でした。思えば其の翌朝││翌々朝││いやもう其れからは毎朝の悲嘆(なげき)。家内は逆上して、「そんな意見をしたがわるい、忰を活かして返してよこせ、今すぐ。」と泣くやら叫(わめ)くやら。拠(よんどころ)なく取って押えて、蒲団で包(くる)むようにして、馬乗りに乗りながら叱っても賺(すか)しても、そんなことで制しきれる狂女の力ではないのでした。七日ばかりは自分も碌々食わず眠らず。実際、其頃の家内の様子は、あの忰のあとを追って、日光山中の懸瀑(たき)の中へ同じように身を投げないともかぎらなかった。漸く家内の気分も治った時、自分の心に浮んだのが是旅行(たび)です。諸国の名所を見せ、寺々へ参詣させ、しるしのあるという温泉へも入れて見たら、あるいは家内の心も快愈(いえ)よう、それにあんな風でもなか〳〵の洒落者、気に入った帯があったら買ってもやろう、すこしは当世の風俗を見て精神を晴せ、とまあ児童(こども)を慫慂(そゝのか)すようにして、斯うして二人して旅に上(のぼ)ったのです。あゝ、忰が傷(いたま)しい思を為尽して、死ということに想い到った時にも、よもやその為に父が白痴(たわけ)になり、母が狂(きちがい)になって、昼は昼で哭き、夜は夜で思い、斯うして北海までもさまよって行こうとは、夢にも想像しなかったことでしょう。 斯ういう自分は、平々凡々な、しかし安静(しずか)な無事な生涯を田舎に送って来た男なんです。 どうでしょう、この平和な生涯が四十三年目にがらりと一変して了ったとは。 実に、自分等夫婦は漂泊する巡礼の思でした。 七月の海の空気を吸って、二人の馬鹿は互に一人息子の死を冥想しながら、夢のように潮の鳴る音を聞いて居りましたのです。
深秘(ふしぎ)な空想(かんがえ)はいつのまにか自分の胸に宿りました。もし忰の死屍(しかばね)があの滝壺から浮上って、急流の為に押流されたとすれば、落ちて行くところは何処でしょう。いずれこの大海(だいかい)の中だ。左様(さう)だ、左様だ、この風濤(なみかぜ)の片時も静息(やす)まないところこが忰の墳墓(はかば)であろう、こゝに柳之助が恒久(いつまでも)眠るのであろう。とまあ、斯なことを思い耽って居りますと、やがて十二時の鐘が船中に鳴り響きました。
其時、昼飯(ひる)といって乗客へ一個(ひとつ)ずつ重箱形(じゅうはこなり)の弁当が渡る。烏賊(いか)の煮付のにおいを嗅いで見たばかりでも、自分等はもう食う気にならないのですが、その弁当を持った二人の青年が丁度自分等の側へ来て腰懸けて、さも甘(うま)そうにやり始めたのです。見れば一人は労働の経験もありそうな男、酒と女に身を持崩して、五稜郭あたりへ行って雪橋を曳くという、流れ渡りの「あんこさん」を想い出させる。一人は二つ三つも年少で、まあ忰と丁度同年配。書生ということは、まだ初心(うぶ)な
様子でも解る。それにあの眼鏡越しに海を眺める眼付の若々しさは、亡くなった柳之助に彷彿(そっくり)でした。他人の空似ということは有ますが、斯うもまた克(よ)く当(に)た男があるものか知らんと、自分は心に驚いて了った。どんなに自分は双方の眼を擦って、其書生の横顔を熟視(みまも)りましたろう。家内は、と見ると、これも矢張(やっぱり)同じ思です。自分等夫婦が互に顔を見合せた時は、言わず語らずの二人の心がもう悉皆(すっかり)通じたのでした。噫、斯な船の中で、死んだ子に邂逅(めぐりあ)うという筈も無いのですが、そこがそれ思做(おもいな)しの故(せい)で、もし是方(こっち)から声を掛けたら、
「父上(おとつ)さん、父上(おとつ)さん。」と自分の手を執って、幽界(あのよ)の深秘(ふしぎ)と恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とを訴えはすまいか││どうか見ても忰だ、柳之助だ、と親馬鹿の迷想から、斯な途方も無い事を考えました。幾度(いくたび)自分は心の中で、「柳之助、柳之助」と呼んで見たか知れません。終には大な声を出そうとして、自分で自分の無法に呆れたのです。
とう〳〵斯な風に切出しました。
「失礼ですが、君等はどちらでいらっしゃいます。」
「僕ですか。」とその書生は微笑んで、「僕は江州の方からやって来ました。」
「江州? それはまた非常な御遠方から御出懸ですな。」
「はあ。仙台に叔父が有ましてね、そこを頼って出て来たんです。ところが其叔父は戦争に行って居ないもんですから……まあ、これから一つ北海道へ職業(しごと)を見つけに行こうかと思いまして││札幌にはおもしろい職業があると言いますからね││札幌が不可(いけな)けりゃ旭川あたりまで。」
「へえ、左様ですか。若い時はそれでなくちゃあ不可(いけない)。なあに、心配することは要りませんよ。働く気さえあれば、いくらも職業は見つかりますよ。」
と言い慰めて、自分は是書生の質樸な、快活な、しかも男らしい気象を見て取りました。年嵩(としかさ)な連の男は、時々可厭(いや)な目付をして、盗むように是方(こちら)を見る。是書生に彼様(あん)な連があるということは、どうしても自分に合点が行かない。聞いて見ると、偶然同伴者(みちづれ)になったとかで、別段友達でもなければ、同国のものでも無いらしい。言わば只同じような漂泊者であったのです。
家内は包の内から林檎を取出しました。それは昨夕、青森で果実(くだもの)売る女の群に取囲(とりま)かれて、籠にあるのを買取って来たのです。柳之助は斯うした淡泊(あっさり)したものを好みました。家内は又それを憶出したと見えて、丁度忰にでも呉れるような気で、其色の未だ青々とした中でもすこしは黄ばんで甘(うま)そうなやつを、扱(よ)って二人に薦(すゝ)めました。自分は忰を失くしたことから、耳の遠い家内を連れて斯うして旅行(たび)に出掛けて来たことまで、一伍一什(いちぶしじゆう)を話出して、「いえ、是も何かの御縁というものでしょう。何卒(どうか)まあ御遠慮なさらないで、一つ召上って見て下さい。」とつけたして言いました。
「どうです、君、折角の御思召だ。一つ頂戴して見ようじゃ有りませんか。」と連の男はあつかましく出る。
「さあ〳〵。」と自分は小刀(ナイフ)を出して薦めた。
家内は児童(こども)のように自分に倚り凭って、林檎を剥く書生の手つきを見とれて居りました。追憶(おもいで)の涙はその蒼(あおざ)めた頬を伝って、絶間(とめど)も無く流れ落ちるという様子でした。自分等夫婦はもう慾も得も無く、この肉身(からだ)までも忘れて了って、現世で二度とは逢えないと思ったその忰の俤にあこがれたのです。書生も、連の男も、果実(くだもの)を齧る様子は丁度饑渇(かつ)えた獣のようで、音を聞いてすら、さも〳〵甘そうに、食慾と血気とで震えながら食いました。
「甘いねえ、君。」
と書生は連の男に私語(さゝや)きながら、目を細くして林檎のにおいを嗅ぐのでした。
「甘い。」
と連の男も舌鼓を打った。
やがて一時の鐘が鳴る頃は、乗客がいずれも倦(う)み果てゝ了って、手荷物を枕に横になるのもあれば、魚のように口を開いて甲板の上で眠って居るのもある。檣(ほばしら)の周囲(まわり)で盛に起った日露戦争の噂も、いつのまにやらばったり止んで了った。函館へ、早く。今は船の中で斯う願わないものは無いのでした。たゞ一時(いっとき)でも斯うして長く居たいという思想(かんがえ)の旅人は││恐らく、自分等夫婦ばかり。何故。というのは、斯うしてこの青年と一緒に居て、あの柳之助を憶出すというのも、最早(もう)たった三時間しか無いのですから。というのは、玆でこの青年に別れて了えば、再び邂逅(めぐりあ)う機会があるやら無いやら、いやもう一生忰に逢えないばかりでなく、その面影ですら三時間後には見ることが出来なくなって了うのですから。
「何か君はしきりに睽(みつ)めてるねえ。」
と書生はつか〳〵と舷の方へ歩いて行って、連の男の肩を叩いた。連の男は振返り乍ら、
「見給え、まあ彼の煙を。」
「煙?」
「どうも彼様(あん)なところに煙が見えるというのは不思議だ。」
「どれ、何処に││ちっとも見えないじゃ無いか、其様なものは。」
「あれ彼の煙が君の目には見えないのかい。」
この二人の対話(はなし)に不審を打って、自分も檣の側を離れた。遠く海峡の東を眺めると、烏賊(いか)の水族(むれ)が乗って下るという暗濁色の「親潮」、その千島海流は水平線のところを浸して、日光の反射を受けて、白く黄に光りました。天空に横わるものは団々とした雲の群。七月三十日の午後の日ざかりで、盛夏極熱の暑(しょ)はこの海を焼くかと思われました。水平線の上は唯一面紫がゝった灰色。空気は濁って、別に煙らしいものが、目に入るでもなかった。先刻(さつき)から安楽椅子の上に長くなって、静に「共同海損法」を読んで居た船長は、と見ると、いつの間にか観橋に登って、しきりに望遠鏡で眺め入って居たのです。
急に自分等は不安の念に襲われました。船は青森を抜錨してから、彼是四十海里も進行して来ましたろうか、右舷大澗崎(おおまみさき)を望んで駛航(しこう)してまいりますと、丁度その大澗崎の方角にあたって、雲のような煙が認められるようになった。二十分ばかりして、同じような第二の煙が顕出(あらわ)れる。つゞいて第三。それは太平洋沿岸に出没するという噂のあった浦汐艦隊で、大澗崎から龍飛崎(たつぴみさき)の方角を望んで、三海里ばかりの沖合を海岸に沿いながら徐行して来たのです。次第に接近して、やがて彼我の距離が五海里程になると、艦影も判然しました。黒鼠色の三隻の敵艦が、武装の無い自分等の船の方を向いて、殺気を帯びて寄り進んで来た時は、船員も乗客も総立になった。敵の陣形は単縦で、各艦約半海里の間隔を置いて、先頭に「ロシヤ」││「グロンボイ」││後れて、「リュウリック。」
歓(うれ)し哀しい追憶(おもいで)も、幻想(まぼろし)も、この意外な翹望(ながめ)の為に破砕(ぶちこわ)されて了いました。
其時は最早(もう)暗い船房に留って居るものが一人も無かった。眩暈(めまい)も、嘔吐(はきけ)も、疲労(つかれ)の苦痛(くるしみ)も忘れて了って、百四五十人の乗客が一時に甲板の上へ集ったから堪りません。艫(とも)の方に居た人々は、いずれも炊事室の側(わき)を通り抜けて、舳先へ〳〵と押寄せました。「降りろ、降りろ、生命(いのち)が惜しくば下へ降りろ。」と呼ばっても叱っても、やたらに激昂して力みかえる人々、泣き叫ぶ女小供││とても船員の力で制しきれる混雑では有りません。恐しい機関の音は一層の凄じさを添えました。敵はあの帆船の清渉丸をすら撃沈して、船荷と金銭とを掠奪したという程の手合ですから、こりゃ一刻も油断する場合で無いと、いずれも素足に尻端折、成るべく身軽になって、風呂敷包は襷に背負いました。
「奥さんは僕が引受けます。」
と言って呉れた書生の言葉も僅に聞取れた位。家内はもう顔色を失って、書生の傍へ倚添(よりそ)い乍ら戦慄(ふるえ)えました。
死││自分等は今その力の前に面と向って立ったのです。水夫の群は「ズック」の雨掩(あまおおい)を取除けて、いざと言えば短艇(ボート)を下す用意をしました。若し全速力で疾走して行ったら、一時間足らずに要塞の掩護(えんご)に入ることが出来よう、というのが船長の覚悟でしたから、船はあらん限りの速力を出して、速力というよりは死力を出して進みました。
斯ういう危険な位置に陥った時、急に函館の方面から、丁度露艦と同一の方向に疾駆して来たのは吾が艦艇でした。敵もまた同艦艇を見て、躊躇したものか、その進行を止(とゞ)めた模様。尤も、この敵のこの躊躇は、津軽海峡再度の通過の最後の決心を固めた時らしいので、遽然(にわかに)盛なを揚げて、飛鳥のように遁走をはじめました。
「万歳、万歳」の叫び声と一緒に、甲板の上の人々はいずれも吾艦艇の方へ向いて、帽子を振り動かしたのです。
「最早(もう)大丈夫。」
と自分は家内の方へ振返って、ホッと深い溜息を吐(つ)いた。
「大丈夫。」
と二度まで繰返した。家内はまだ書生の肩にとりすがって、容易には其側を離れそうにも見えないのでした。
自分等夫婦がふたゝび追憶(おもいで)の夢に帰って、残りすくなの時間を書生との物語に送ろうとした頃は、臥牛山が眼前(めのまえ)に顕出(あらわ)れました。赤々とした断崖の一角が険しい傾斜になって、海の方へ落ちて居るところを見ると、その日をうけて白く光るのは函館の港の空。一羽の海鷗(かもめ)は舷近く飛んで、先ず自分等の無事を祝うかのように見えるのでした。
四時の定刻には港口に着きました。あゝ甲板の上から函館の市街を望んだ時のその人々の歓喜(よろこび)は奈何(どんな)でしたろう。山腹の傾斜に並ぶ灰色の板屋根、石と砂とを載せた南部風の家々の間には、新しく高い甍(いらか)も聳えて、松(まつ)、橅(ぶな)、「いたや」の緑葉につゝまれた其光景(ありさま)、または日に輝く寺院の高塔から、税関と病院と多くの学校の建築物(たてもの)まで││その新日本の港の眺望は、煙と空気とにつゝまれて、自分等の眼前(めのまえ)におもしろく展けました。海岸に集る黒山のような人々は、狂うばかりに歓喜(よろこび)の声を揚げて、この定期船の無事な入港を迎えたのです。駿河丸もまた嬉しそうな蒸汽の音を鳴り響かせました。この港に碇泊して居た多くの帆前船、蒸汽船、または大艀(おおはしけ)、弁才(べんざい)、川崎船のたぐいから、思い〳〵の目印に白く赤く化粧板を彩った三ぱ、磯舟などの間を潜り抜けて、急いで桟橋の方へ近いた時の駿河丸は││丁度脅(おびやか)された水禽(みずとり)が危いところを遁(のが)れて、友呼ぶ声を揚げながら、早く岸へと焦心(あせ)るかのよう。船が停って溜息を吐けば、波は囁きながら動揺しました。
船客一同が艀に飛び移って、争って桟橋へ上った時は、迎えるもの、迎えられるもの、その狂喜した人々の光景(ありさま)と言ったら││親は子を、姉は妹を、抱き〆るやら、武者振付くやら。女はいずれも嬉しさのあまりに泣いて、傍(はた)で観る人の心にすら実に深い震動を伝えるのでした。
いよ〳〵書生と別れる時が来ました。名残惜しさに茫然(ぼんやり)として群集(ひとごみ)の中に佇んだ儘、自分等を取囲(とりま)く宿屋の引のことは愚か、そこに置いた手荷物も、手に提げた鞄も、何もかも其様なものは忘却(わす)れて了って、たゞこの青年と最後の言葉を交して居たのです。どんなに自分はこの一日の船旅を考えて、思いがけない人の親交(したしみ)と別離(わかれ)とに胸を打たれましたろう。
急に連の男の姿が見えなくなったので、気が注(つ)いて振返った時は、見上げるような大な巡査が書生の腕を確乎(しつか)と押えて居りました。「それ、攫徒(すり)だ。」と人々は自分等の周囲(まわり)を取巻く。
「こら、貴様は何を茫然(ぼんやり)してる。物を奪(と)られて知らずに居る奴があるか。」
とその巡査に言われて、はじめて自分はそこに置いた手荷物の無いに驚いたような始末。
「何です、失敬な。」と書生は激昂して、押えられた腕を振解(ふりほど)きながら、「僕は其様(そん)な不正なことをするような人間では有ません。」
「まあ静にせい。貴様は一体何処の者か。貴様が不正なことをしたとは乃公(おれ)も認めない。││しかし不正なことをした男の連であろうが。」
斯う巡査が言うので、自分の知って居るだけの事実を並べて、決してこの青年が烏散(うさん)なものでは無いと弁解(いいほどき)をしてやりました。巡査は一々首肯(うなず)いて、どうしてあんな胡麻の蠅のような奴と同伴者(みちずれ)になったか、それを書生から聞取った後、猶いろ〳〵尋問したり説諭したりして、自分にも早速盗難の手続をせよと言いました。
「あ、ちょと、貴様の住処姓名を聞いて置こう。」
と巡査は手帳を取出して、書生の顔を眺めた。
「住処は何処か。」
「近江国栗太郡草津町。」
「姓名は。」
「西川廉太郎。」
「年齢は。」
「十九歳。」
この問答の後、書生は自分等夫婦に別離(わかれ)を告げて、ふたゝび漂泊の旅に上ったのです。自分は其の後姿を眺めて、亡くなった柳之助を憶出さずに居られないのでした。家内はまた其処へ倒れるばかりに泣いて、漸く自分に取縋(とりすが)りながら見送りました。終(しまい)には二人して延び上り〳〵眺めて、麦藁の夏帽子、白地の飛白(かすり)の書生姿、その青年の形像(かたち)が群集(ひと〴〵)の中に没(はい)って、最後に隠れて見えなくなる迄も見送りました。
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